山南敬介にみる”組織力”について~歴史から学ぶシリーズ~
会社を退職して、現在無職を謳歌しているものです。
今、かなり時間があるので思考するにはもってこいの時間です。
これまでの社会人生活5年がむしゃらに動いてなんとか経験値を貯めてきました。
今後の数年は貯めた経験値を資産と考えてどこまでレバレッジを効かせるかが勝負になります。
ところで、「知性」というものについて考えると、
個人的にその定義は
「法則を見つける能力」
というのに集約されるかと思います。
これまで得た経験からある程度の法則はわかりました。
ただ、それだけだと自分だけの世界での法則しか見つけられないとも感じます。
そこで考えたのは歴史から学ぼうと考えました。
歴史の中で起こったことの「原因」と「結果」そしてそのパターンから学ぶことによってさらに法則を見つけ、人生にレバレッジをかけようと思います。
当然、せわしなく動いている期間はそんな時間ありません。なので無職期間の今は絶好の機会と言えます。
さて、そのシリーズの第一弾として、幕末の重要組織「新撰組」から考えていきます。
歴史から学ぶといっても色々あるかと思いますが、今回は出来事ではなく、その出来事の裏に当事者が何を考えていたかについて考察を進めます。
これから中二病感も出てきますが、その辺りのツッコミはなしでお願いしますね。
ある程度、歴史の予備知識がある前提で書いていますので、詳しくない人で興味がある人はググりながら読んでください。
幕末というのは様々な思想がありました。
その中でも新撰組というのは佐幕側の思想を持っている組織と言えます。
そして、その新撰組の重要人物を今回2人挙げるとすると
「山南敬介」と「土方歳三」がポイントになってきます。
山南敬助 - Wikipedia
土方歳三 - Wikipedia
今回、結論から言うと、組織はお互いを認め合うことで成長する。
と言う結論になってます。
なぜ、そのような考えに至ったかを、「出来事」と「その時の考え」、そして「結果」から説明していきます。
参考図書は下記です。
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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- 作者: 橋本エイジ,梅村真也
- 出版社/メーカー: ノース・スターズ・ピクチャーズ
- 発売日: 2015/06/08
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- 作者: 永倉新八
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前提、解釈は人それぞれなんだな~と思っていただければと。
(漫画があるやんけと思いますが、これ面白いので読んでください)
出来事は、芹沢鴨の粛清から山南敬介の死までの期間から考えます。
芹沢鴨の粛清後、試衛館を元にした組織が新撰組の中心となっていきます。
とりわけ絆が強いメンバーを中心にした人物が組織を動かす状態となりました。
その折にできたのが「局中法度」という今の言い方でいうところの「行動指針」です。
(文献によっては芹沢鴨粛清前という話も)
それは浪人集団だった新撰組を組織として強くするために、組織の中心人物であった先の2人が定めた法です。
先に説明した通り、新撰組は佐幕側についています。
その経緯としては、
- 清河八郎が佐幕のため浪人たちを集め浪士組として試衛館を京都に集める
- しかし、清河八郎の思想は佐幕とは逆の尊王攘夷であった
- それが幕府側にばれ、追われる身に
- 結果的に浪士組は解散されるがメンバーはそのまま会津藩預かりとなり壬生浪士組と改め後の新撰組となる
という経緯で佐幕側になりました。
そこで考慮すべきことが2つ
これらの思想の違いが後の「出来事」を生むこととなります。
そこで両者の関係を考えると、
資料から2人はお互いにいけ好かない状態だったと記されております。
土方歳三は山南敬介が有識者であることを。
山南敬介は土方歳三が思想もなしに生きていたことを。
しかし、もし仮にそうだとした場合、その後の出来事に矛盾が生じると考えます。
話を戻して芹沢鴨の死後から進めます。
その後、「伊東甲子太郎」が新撰組に加入します。
伊東甲子太郎は北辰一刀流というその時の新撰組では山南敬介・藤堂平助の同門となる流派でした。
その流派というのは佐幕に相対する攘夷を基本とする思想を持っています。
その後は、新撰組内でも佐幕派と攘夷派の2つの思想で密かに別れており、
攘夷派の中心人物である伊東甲子太郎は当時佐幕派と敵対する薩摩と繋がっていました。
そのような行動は先に説明した局中法度の1つである「士道に背く行為」です。
そして、長州藩や土佐藩をはじめとする雄藩の台頭により佐幕側の分が悪くなっていたというのが有識者の考えでした。
新撰組一の有識者である山南敬介も、もともと攘夷思想を持っていたのに加えそのような時流からその思想が強くなりました。
一般的に起こった事実では、
その後、隊を脱し、そのことによって切腹するという結果となりました。
(他の解釈もぜひ紹介したいですが、参考図書のネタバレになるので伏せておきます)
いずれにせよ、自らの攘夷思想を貫くより、新撰組の掟を選んだ結果、死を選びました。
当然、これまでの功績やそれをもたらした山南敬介の才を持ってすれば、新撰組と対立しようとも攘夷の道を進み、維新の重要人物となることも可能なうえに、山南敬介自身もその自信があったと考察します。
ifの話をすると、
もし、山南敬介が裏切り攘夷に走ったとした場合、圧倒的に邪魔だった存在が土方歳三です。
なんども言いますが、山南敬介ほどの実力があれば確実に土方歳三を倒す方法はありました。
ではなぜ、死を選んだのか。
それは先の、
「山南敬介と土方歳三がお互いにいけ好かない状態であった」
という説を否定することで説明がつくと考えます。
繰り返しますが、新撰組という組織を実質作り上げていったのは「山南敬介」と「土方歳三」でした。
その時から
土方歳三は山南敬介の「実力を認めていた」
山南敬介は土方歳三という「存在を認めていた」
そして結果的に自身の思想を貫き通すよりも、土方歳三への「尊敬」から死を選んだのだと考えます。
死は共に作り上げた「局中法度」を守るという選択でした。
その後、時流には逆らえず、土方歳三の死をもって新撰組という組織は終わります。
しかし、維新側にとって一番の敵であった新撰組という組織は強い組織だったと言えるでしょう。
まとめると
出来事は山南敬介は自ら死を選んだ。
それには土方歳三への尊敬という考えがあった。
結果的に組織は強くなった。
これから
「お互いを認め合うことが組織力を向上させる」
というある種のパターンが導き出された歴史から学んだことです。
論理展開について言い訳
- 出来事自体はなるべく史実に基づいてますが、考えには独自の解釈が多く含まれてます
- 新撰組が「強い組織」ということを説明するロジックは上記だけだと抜けています
というわけでもう少し、様々な資料を読み漁って、
より確実な独自の幕末論を作っていこうと思います。